誰かの願いが叶うころ

I bought this cd when it was new. I sold my car and moved to Japan. I opened my CD case looking for this CD, I have a lot so it took some time. I lookied three or four times, then realized it was still in the car I had sold. So now I am buying it again. You do tha math......how many CDs are worth buying the same one twice? This one is and then some.....



自動機サービスセンターでアルバイトをしていたとき、
私が見てもやばそうな人に新規からいきなり50万円貸してた。
決済出してる人も枠を減らす権限がないと言ってそのまま決済入れてたよ。
5万しかいらないって言ってる人にも決済出たら50万貸してたよ。
あれが過剰貸し付けってやつなのかな?



元柏の支店長の○藤が管理職で居る事自体がこの会社の悪しき体質である。
今回の業務停止はこんな奴がいるからだ。
支店長時代はゴルフの強要、呑み会の強要、サ−ビス残業の強要。
などなどたくさん出てくる。即刻降職させよ!!!

大迷惑

−経緯−
昭和44年4月7日午前1時過ぎ、渋谷区にある専門学校で、何者かが侵入し警報が鳴った。付近をパトロール中の警備会社の警備員が早速、専門学校に駆けつけると、事務室の机やロッカーが荒らされて、不審な男がうずくまっているのを発見した。この侵入者は、警備員にピストルを発砲し逃走したが、現場に駆けつけて来た代々木署の警察官3人に取り押さえられ現行犯逮捕された。
この男が、前年の連続射殺事件の犯人永山則夫(当時19歳)だった。

−連続射殺魔−
永山は、昭和43年10月11日午前1時前、東京・芝公園の東京プリンスホテル本館脇にあるプールサイドで同ホテルのガードマン、中村公紀さん(当時27歳)を、1メートル前後の至近距離からピストルで射殺した。このピストルは、米軍基地から盗んだもので、いつも持ち歩いていた。

永山は、前日の10日に池袋でボーリングしたり渋谷で映画を見たりしていたが、急に「以前、東京タワーからみた東京プリンスホテルのプールサイドに行って見たくなった」という軽い気持ちで、ホテルの塀を乗り越えてプールサイドに踏み入れたのだった。

一方、同ホテルのガードマンは、パトロール中に永山をプールサイドで発見、不審に思ったガードマンは事務所に連れて行こうとして揉み合いになった。この時、永山は捕まったらピストルを盗んだことがバレるため(以前にも犯行歴がある)、ガードマンに向かって発砲した。

この第一の犯行で、永山の逃走劇がはじまる。
この事件から3日後の10月14日午前1時30分頃、永山は京都東山区の八坂神社境内で警備員の勝見留次郎さん(当時69歳)を射殺。10月26日午後11時過ぎ、北海道・函館市郊外でタクシー運転手の斉藤哲彦さん(当時31歳)を射殺。売上金9千円を強奪。11月5日午前1時過ぎ、愛知県・名古屋市港区で同じくタクシー運転手の伊藤正昭さん(当時22歳)を射殺。腕時計と現金7420円を強奪した。

僅か1ヶ月で4人を射殺するという衝撃的な事件で、日本中を恐怖に陥れた。中でも、タクシー運転手が、午後11時過ぎになると乗車拒否をするなど社会現象をもたらした。

−生い立ちとその後−
永山は昭和24年6月27日に北海道網走市で、8人兄弟の7番目の子として出生した。父親が、無類のギャンブル好きで家は困窮を極めたという。明日の米さえ無いと言う環境の中、母親が行商しながら生計をたてていた。

その後、集団就職で東京に出てくるが、職場での永山は、読書好きで無口な男という印象だったようだ。このような男が、何故4人もの尊い命を奪ったのか?微かなボタンの掛け違いだったのだろうか?

永山は服役中に過去の過ちを深く反省した手記「無知の涙(合同出版)」、小説集「木橋立風書房)」などの本を執筆しベストセラーになった。特に、「木橋」は、新日本文学賞を受賞している。永山は、これらの印税を被害者の遺族に贈っていた。

昭和54年7月10日東京地裁は永山に死刑を言い渡した。昭和56年8月21日東京高裁は一審の死刑を破棄して無期懲役の判決。昭和58年7月8日最高裁は二審を破棄して東京高裁に差し戻し。昭和62年3月18日東京高裁は死刑判決。平成2年4月17日最高裁は二審の死刑を支持して永山の上告を棄却し死刑が確定した。平成9年8月1日東京拘置所で死刑執行(享年48歳)。

バッド・フィーリング

賢早。
私は中華民国出身の女性です。
林楡花(りん・ゆーふぁ)という名前です。
20歳です。今は台湾に住んでるないです。留学で日本に住んでるです。
日本人男性の恋人が募集するです。せっくすもしたいです。恥ずかしい:-O
私は夢は日本人男性と結婚する、日本に住む(永住に)です。
メールの返事を強く希望する欲しいです。




猪木は、対戦相手もレフェリーも「お約束」どおりの動きで勝たせてくれるんだから、
まあ、普通に見てると強く見えるわな。
猪木は一瞬のかえし技や丸め込みで勝つことが多かった。
今、当時のビデオを見たりすると、「お約束」が見え見えのしょぼい勝ち方なんだけど、
会社(新日)はもちろんテレビ局、プロレスマスコミも含めて、業界をあげて猪木を祭り
上げていたからな。
小学生の頃は俺も猪木が強いと思ってたけど、同時にうさん臭さも感じてた。
引き立て役、やられ役だった坂口のほうが俺は好きだったけど。

フール&ザ・ギャング

昭和の日本人レスラーの中で、実際には坂口が一番強かったと感じているプロレス関係者は多い。
まあ、一番かどうかは別にして、坂口が相当の実力者だったことは間違いない。
猪木の現役時代は口にすることもできなかったが、最近では当時猪木や坂口と対戦した外人
トップ級レスラーの多くもそう証言している。
ただ、猪木と同格のエースという条件で新日と合流したものの、実際には猪木がトップレスラー
で社長、坂口はNo2レスラーで副社長というポジションになってからは、坂口は猪木の引き
立て役のNo2に徹した。
ハンセンも坂口相手なら、思いっきりラリアートをぶち込むことができたのだろう。
猪木に思いっきりぶち込んだら病院送りになって、新日をすぐクビにされていただろうから。
悪役も頑丈な肉体の坂口相手なら、思いっきり悪の限りを尽くして蹂躙して、自分のヒール
としての価値を高めることができたのだろう。


私はしがない独り者のサラリーマン。

寝ては起き、ぎゅうぎゅうの通勤電車に揺られ会社に出勤する毎日。

たまの休日は昼まで寝て起きカップラーメンをすする。

ふと”オレハイッタイナニヲヤッテイルンダロウ?”と自問自答するにまでいたり、

自分で危ないなこれはと思っていました。

日曜日に一人部屋でボーッとしていた私は携帯電話を取り出し「出会い」を求めました。

もともと口下手で、たまに誘われるコンパも最後にはいつも一人ぼっち・・・。

しかしどうせ顔もわからないんだしと開き直り、積極的に掲示板に書き込んだり、メールを送ったりしました。

すると初めて私に返事が着たんです。しかも2通も!!

Aさんは何してるの?と言う内容でした。

私は、はじめにまずメールで丁寧に挨拶をしました。

しかしメールをくれた彼女には敬遠されました。私は心から悔やみました。

2通目のBさんも何しているのという内容でした。

他府県の方でしたが、掲示板から私のプロフィールを見てメールを貰いました。

私はどう返事を返そうか考えに考えました。思いつたのは・・・

「地元で買い物してます。」でした。

彼女からの返事はすぐに着ました。

「一人で買い物ですか?」と・・・

私はまた考えました。友達とか、ひとりでか?しかし初めてですし正直に

「一人でです。」と返しました。すると、

「私も一人で買い物なんです。友達が急に来れなくなって☆☆あたりをブラッチしてます。

○さんはどこらへんですか?よかったら私と会いませんか?」と・・・

僕は喜びいそしんで着替え部屋を出☆☆を目指しました。

☆☆まで歩いて10分地点に着き、

「すぐ近くですし、いいですよ。」と返すとすぐに
   
「じゃあ、♪♪で待ってます。」と返事があり、

僕の胸の鼓動は一歩ごとに大きくなり現場に到着。

”即会い” ってやつですw

出会って彼女の一言目が、

「じゃあ、どこ行こっか?」と言われ何も考えてない自分に気づき、

「○○ちゃんの行きたいトコでいいよ。」

彼女は笑顔で、

「うん。」と答え「じゃあ・・・・・・・・・」

僕たちは話をしながら歩いた。

その後の話しは、貴方もご自分で体験なさってください。

落下ドライブ

人格無視のババァ退治!ケツにチューブを突っ込まれ、牛乳をどんどん入れ込む。耐え切れずカメラマン目がけて糞を噴射!極めつけは超極太バイブでズッコンバッコン!他では見られないマニアの為の究極エロス!



坂口と小林のタッグも何気に良かったな。
シン、上田との北米タッグやアジアタッグ戦は、見事なやられっぷりで見応えがあった。
シン、上田もこの2人相手の時は、いつも以上に悪の限りを尽くしていたな。
まず小林がやられて戦闘不能状態になり、孤立した坂口が2人がかりで蹂躙されて血の海
に沈むという展開が多かった。
レフェリーのミスター高橋も、シン、上田の反則は見て見ぬ振りが多く、悪の限りを尽くして
蹂躙しても、反則負けになることは少なかった。
わけのわからない「無効試合」判定でタイトル没収とか、反則の限りを尽くされて蹂躙され、
血の海でのたうつ坂口組の「試合放棄」で負け判定→タイトル喪失とか。

Midnight Teenage Shuffle

坂口社長時代、銀行・TV局から信用があったのは、
坂口さんが唯一新日の人間で猪木さんの暴走を抑制できるからです。
現役時代の猪木選手の付き人をしていた蝶野選手・藤原組長はもちろん
コンニャク藤波辰巳元社長・長州力WJ元代表も猪木さんにはNoと言えない。
坂口さんは猪木さんより一歳年上で、お互いを呼び合うときも
坂口「猪木」
猪木「坂口さん」
で、年齢的な上下関係がそこにはあるわけで。
新日本への投資は猪木事業に湯水のように流れるから出来ないが、
坂口さん個人にはお金を貸しますよ。という流れでしょう。

坂口社長―NWO時代は新日本プロレス30年の歴史で一番の黒字を出した。
テレビも深夜に移り、異種格闘技ブームも、タイガーマスクブームもなく、
格闘技ブームが起こっていた時代に、アントンハイセルへの融資を止めたことで
出せた黒字。猪木さんにNOと言える人は貴重だ。


猪木、パワーズ、パターソンなんかに4の字(8の字)固めを決められて、もがき苦しむ坂口の
姿には燃えたな。
全身汗まみれでのた打ち回り、ハンサムな顔を苦痛でゆがめ、必死で痛みに耐えている姿は
絵になった。まさに全身で痛みを体現していたよ。
身をよじって反転したりしながらようやくサードロープに手をかけても、非情なミスター高橋
が必ず坂口の手を蹴ってロープブレイクをさせないんだよな。
ひどい時には、完全に肘や肩までロープの外に出てるのに、ロープブレイクを認めないばかりか
坂口の体を持ってリングに押し戻すんだよ。そして、また坂口はのたうち回ってもがき苦しむ。



http://www.oisinbosoft.com/cata/pic/TS-GOLD-11.jpg


クラップ、シン、上田、パワーズ、ブッチャー・・・。
悪役に反則攻撃でいたぶられる坂口はよかったね。
猪木がやられる時の千倍燃えたよ。
男前で大きな坂口があと一歩のところまで攻め込んでいながら、急所、凶器で形勢逆転し、
悪の術中にはまって血の海地獄に沈んでしまうというパターンが何とも言えず好きだった。



若い人は全盛期の坂口を知らないだろうから、タイトルマッチでチャンピオンベルトを
渡してた大きなおじさん、坂口憲二のお父さん、っていうイメージなんだろうね。
俺も日本プロレス時代のゴールデンルーキーの頃の坂口は知らないが、すごい人気だったらしいよ。
新日本でクラップ、シン、上田、ブッチャーなんかと戦っていた頃の坂口はよかったよ。
猪木の引き立て役でヒールにはひどい目に合っていたけど、そこがまたよかったな。





人気があったのはたしか。しかしそれは純粋なプロレスラーとしての人気じゃなく
日本プロレス史上最大の大物ルーキーとして。後にも先のも坂口以上に世間で騒がれた
プロレス転向者はいない。だが悪い言い方をすれば輪島同様「客寄せパンダ」としての人気
実際日プロ時代から「坂口だらしないぞ!」と野次が飛んでたし、「ろくな試合しかしない」と
酷評もされてた。日プロ四天王末席、最弱だった

あいさつはいつでも

メール有難う御座いました。
少し前にヤフーの掲示板で遊び友達になってくれる人を募集してました、葵と申します。
主人に内緒で遊びに行っている内にもっと遊びたいと思ってヤフーに投稿していました。
年も今年で33になりますが、気持ちだけは若くいるつもりです。
パートに出ている分自由に使えるお金もありますし、よかったらお友達からお願いします。
今はここのサークルを使ってます。 パソコンも少しはわかりますからいろいろとお話したいですね。
毎週土日は仕事もお休みなんです。
変なメールだと思われるかもしれないですけど私は本気で出会いたいです。
お返事待ってます。