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三上寛


1950年 青森県小泊村生まれ。警察学校中退後、上京。
1971年 中津川フォークジャンボリーに出演、一躍脚光を浴びる。
1990年以降、PSFレコードから精力的に新作を発表。全国各地で展開されるLIVEとともに、90年代を一気に駆け抜けたその活動は、新たな表現の地平を提示している。
ジャンルを越えた演奏家との共演も多く、故吉沢元治、ジョン・ゾーン、石塚俊明、片山広明、灰野敬二原田依幸明田川荘之山下洋輔遠藤ミチロウ友川かずき、ギャーテーズ、林栄一etc枚挙に暇がない。
2000年3月20日には、音楽活動30周年記念 13枚組CD BOX 「三上寛ボックス」 をPSFレコードからリリース。
2000年11月には自叙伝「三上寛 怨歌に生きる」を彩流社より刊行。


三上寛ほど、「異端」という形容が似合うアーティストもいないだろう。三上の音楽はフォークでありロックであり演歌(怨歌)でありパンクでありジャズでありブルースでありソウルであり前衛である。単なる歌であることを超え、魂の奥底からわき上がる絶望と怨念を叩きつける三上のヴォーカルは、音楽が人間存在の実存とどれだけ激しく交歓できるかという証でもある。三上は1950年、青森県津軽小泊村生まれ。警察学校中退後、上京し、音楽活動を始める。71年4月、アルバム『三上寛の世界』を発表。同年の中津川フォーク・ジャンボリーでの伝説的なライヴ・パフォーマンスで一躍脚光を浴びる。同じ青森出身の寺山修司のセンスと、そしてやはり同郷で、同じ年の「連続射殺魔」永山則夫の情念を往還するような衝撃的な詞世界は、三上以外ではありえない個性だった。メッセージ・フォーク全盛の日本のシーンにおいて、三上寛遠藤賢司、南正人の3人こそが、メッセージの直接性を超えた日本独自のフォーク/ロックの道を切り開いた最大の功労者と言っていいだろう。以降、山下洋輔トリオを交えてのジャズ・フォークを展開した『BANG!』(74年)など幾多の傑作を次々と送り出すいっぽう、俳優としても、寺山修司監督『田園に死す』(74年)を皮切りに20本近い映画に出演、映画音楽も手がけるなど幅広く活動した。ところが82年を最後に三上は8年もの間、レコーディング活動から遠ざかってしまう。歌詞を始め過激さと先鋭性を増すばかりの三上の音楽と、規制を強める既存の音楽産業との折り合いがつかなかったことが原因と思われる(三上は、今後も規制の強いメジャー・レーベルから作品を出す気はないと公言しているようだ)。しかし90年に、ノイズやフリー・ジャズのリリースで知られるから怒濤のリリース・ラッシュを開始する。精力的に展開されるライヴ活動、吉沢元治/ジョン・ゾーン/片山広明/明田川荘之/山下洋輔/遠藤ミチロウ/友川かずきなどとの数々のコラボレーション、石塚俊明/灰野敬二とのバンド「VAJIRA」での活動など、空白に終わった80年代から一転して、90年代の三上はまさに八面六臂の活躍ぶりを見せるのである。00年3月には、音楽活動30周年記念の13枚組『三上寛ボックス』を発表。11月には自伝『三上寛 怨歌に生きる』を刊行するなど、その活動にはいささかの衰えも見られない。最新作は石塚俊明との共作『紳士の憂鬱』(01年)である。



怒号のような荒々しさや、ささやくような穏やかさを持つうたごえと、きわどい表現の歌詞から怨歌フォークとも言われていた。表現のなかには、放送禁止用語も多く見られるが、つボイノリオなどの不純なコミックソング的使用とは異なり、人間の悲しみ、恨み、哲学、物語のダダイスム的表現と破壊の一環としてのものである。 ピストル魔の少年・永山則夫と同級生でもあった。 1990年代から、灰野敬二、吉沢元治らと、サウンド面のアナーキーな破壊も画策し始めている。





青森県北津軽郡東京村じゃ コカ・コーラのドブロク飲んだ
酔払い婆々がビルの墓場に火をつけて
ギャアー ギャアー わめいてた 
ギャアー ギャアー わめいてた

青森県北津軽郡東京村じゃ コンクリートの泥道が 
地震で割れて地割れして 死人でできた小ちゃな土地に
銀行ローンで家建てた
銀行ローンで家建てた

青森県北津軽郡東京村じゃ 
つけまつげしたタヌキやキツネが ニワトリ盗みに
赤い爪をひからして よだれたらして 地ベタにはいずり
夜のくるのを待っていたさ
夜のくるのを待っていたさ

青森県北津軽郡東京村じゃ 
頭割られたお地蔵様が 札タバかぞえ
夜の酒場でヒーッヒーッ 連れ込み旅館でヒーッヒーッ
随喜の涙を流していたさ
随喜の涙を流していたさ

アーッ アーッ アーッ アーッ
アーッ アーッ アーッ アーッ・・・・・・